愚痴日記

今を生きる

最近いろいろ詰んで来ててヤバイ

最近いろいろ詰んできてヤバイ。

 

先週の講義には一コマも出てないし、今日も大学に行かなかった。

先週はゼミの論文と言い訳をつけて行かなかったけど、単純に朝起きられなくなってきている。朝の寒さに勝てない。

こうした生活をいつまでも続けるわけには行かないけど、意志の弱さで自分に勝てない。

 

先日、姉のもとへ行ってきた。姉は大分の大学に通っているのだが、そこは半分留学生という国際色豊かな大学だ。そんな雰囲気だからか姉もかなり国際志向で、意識が海外に向いているようだ。

二人とも下宿生であまり会わないので、姉の話を聞く機会はあまりなかったが、今回は2人きりだったので色々話を聞けた。大学四年ですでに知らぬ者のいない有名企業に内定をもらっているが、そのために事前にいろいろ活動していたようだ。一年の時は単身でオーストラリアに行き、二年の時には様々なプログラムで数カ国に行ってきたらしい。

また入社後の人生設計も考えて、大学院行ったりすることでキャリアを積み、国際貢献のための活動をしたいそうだ。

 

別に姉に限ったことだけでなく周りの大学生を見ても、自主的に資格を取ったり、海外で活動しているやつは結構いる。

さらに言えば勉強面限らず、サークルや部活などを頑張っているやつや恋愛をしてるやつもいる。意図してかは知らないが、みな人間として深くなるために何か活動している。

 

それに比べたら、自分は相当堕落した生活を送っている。

高校時代は勉強で周りに取り残されてきたが、今度はもっと人間として周りに取り残されるのかと思うと辛い。

大学受験では神のいたずらで京大に拾ってもらえたが、もう次はないだろうし、有ったとしてもそれを待てるほど僕の心は強くない。

そろそろなんとかしないと、やばい。ああ…

理屈とは他人を説得するためだけにある

理屈とは究極的には他人を説得するためだけにあると思う。

自分の(人生スケールでの)短期的な目的を達成するためには、概して他人の助けを借りる必要がある。そのときに他人を納得させ、自分の目的を達成するためには明らかに理屈が必要である。ただなんとなく自分がやるのが面倒だからやって欲しいと言っても、相手に聞き入れられる可能性は、相手が自分との関係が浅ければ浅いほど低いだろう。だから理屈が必要になってくる。「あなたが私を手伝うと、あなたにとってこんなにも良いことがある」と伝えなければならないのである。

国家という大きなスケールで見ても同じことだ。国民から集めた税金をどのように使うのかを、なんとなく良さそうという形で決められてしまうのであればたまったもんじゃない。あらゆる政策は「このような理念を達成するために必要である」という理屈の上に立ったものでなければ納得がいかない。それは政策を決める人間と納税する自分が他者であるからに他ならない。

だが、自分の行動を決定することに理屈はいらないと思う。今日一日、寝ていようが起きていようがそれは自分の自由であり、「なぜ今日起きているのか」「なぜ今日起きねばならないのか」と言ったことに究極的には理屈はいらない。もちろん他人に危害を与える場合は別である*1。特に明確な信念がない我々若者にとってはそうである*2。「将来のため」に〇〇をしようという判断をしたとして、じゃあその将来はなぜ"良い"ものなのかというように理屈付けしていくと、結局は生きる意味とは何かという形而上学的な問いに終着する。大人はよく「将来のため」という言葉を使うが、それは後からわかるものだ。今は今生きるしかない。そこに理屈なんて必要ないのだ。

だから理屈は他者を説得するためにあり、自分の判断にそれを用いるべきではないと思うのである。

*1:自分の行動が他人になんら影響を及ぼさないというのはあり得ないが、今回は曖昧な線引きを無視し、及ぼす影響が非常に限定されている場合を想定している

*2:明確な信念、つまり今どのような行動をとるべきかという指針は、多くの経験とその度に何を考えたかの積み重ねによると思う。信じる宗教などがある場合も然り

ブログを書くということについて

 

ブログを書くって自分を見つめ直す作業だと思う。もちろんブログに何を書くかにもよるんだけど、僕みたいに思考を文字化する(&記録して公開する)ために書く場合は特にそうなんじゃないかと思う。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言ったそうだけど、我を思うというのは意外に我がいらない作業というか、我を思っている時って我を忘れているように感じる。でもこうして文字化すると、パソコンの画面にその文字列があらわれ目に入ってくるから、否応無しに我を忘れることができなくなる。

じゃあツイッターとはどう違うんだろうとも思う。ツイッターの場合はそもそも文字数が少ないし、どちらかというと掃き溜め的要素が大きいから、たいして理屈的に書かなくても済むし、つまり自分から逃れる要素が強い。自分にはそのほうが性に合ってる気もするけど。

何が言いたいかっていうと、いよいよ社会人間近でとうとう自分から逃げられなくなってきたので、今までの贖罪的な意味も含めてもう少しブログの更新頻度をあげようと思うので、よろしくお願いします。

猫箱さんの「思想背景」に対しての感想1〜心象強度〜

この記事は、以下のブログ記事へのコメントというか、自分が思ったことを述べるものです。また以下の記事内の引用は断りのない限り、全て以下の記事から引用させてもらいます。長くなるのが嫌なので、一つずつ記事にしていきます。

eroge-pc.hatenablog.jp

 

1心象強度

心象強度とは、外側の影響(=他者・承認・否定)に振り回されない心の度合いを言い表したものです。心象強度が高ければ、友達がいるかいない、集団排斥、他者に非難されようともあまり傷つきません。

自分と他人という境界は実に曖昧なものであると大学の授業で知りました。自分が常にただ"自分"であることはあり得ない、自分というのは他人から影響を受け続けているからだ、という考え方です。ではそれでもなお心象強度が強い人間とはなんなのだろうか、どうしたら強くなれるのだろうか、と思います。

僕自身は心象強度が弱い人間だと常々感じています。他人に流されやすいというか他人の目をどうしても気にしてしまいます。幼少期にはぶられ続けた(少なくとも僕はそう認識している)経験から本能的に仲間はずれにならないような選択をしてしまうのだと思います。Twitterでフォロワーを気にせず自分の好き勝手にツイートをするという経験はそれを克服するきっかけになるかと思いましたがあまり効果はありませんでした。結局のところどうしてもフォロワーを気にしてしまう僕がどこかにいるのです。

なぜなら自分の内側に価値を置くことが出来る人間は、外側にまったく期待していませんから。自分自身がどう思うかどう感じるかが重要で、肝要なわけです。

外界に期待をするから、自分の内側に価値を置くことのできないと言われればそうかもしれません。確かに自分は今まで様々な人に頼って生きてきたと思います。逆境を一人で乗り越えた経験とかないですしね。外界に期待しな(絶望している?)くとも一人で生きれる自身こそが心象強度を強くするのかもしれません。

しかし生きるということの最終的な目標を自分一人で達成することはできないのではないかとも同時に思います。例えば本を読んで感動したとき、ああ素晴らしかったと自分の中で思うと同時に、この感動を誰かに伝えたいと考えるでしょう。人間は誰かと共感することで、感情を増幅させますから至極当然の行動です。もちろん心象強度の強い人間は自分の中で反芻することに意味を感じるのかもしれないですが、伝えたいという思いがない人は相当珍しいと思います。伝えたいという思いがなかったとしても、その本に感動するということは、その本から影響を受けているわけですから結局は同じことで、他者がいるから成り立っている思考だと思います。生きることはこの連続で、何かによって他者から影響を受けたり、誰かに伝えることで他者に影響を与えるとともに、自分の存在を確かめることだと思います。そういう観点からすると心象強度が強い人と雖も、実は限定的というか、むしろ限定的でなければおかしいように思うのです。

思想背景とか

最近、とある恋愛シミュレーションゲームをプレイし感動したので、そのレビュー記事を漁っていたですが、その結果素晴らしいブログにたどり着きました。それがこちらです。

eroge-pc.hatenablog.jp

アニメやマンガやゲームなどの物語を深く鋭く考察していてとても気に入りました。

どのような方なのかすごく気になるところですが、ブログで使われている造語や「思想背景」を綴っているこちらの記事を読むと、結構自分と似たような思考をしているのではないかと思いました。あーわかるわかるという連続という感じです。

管理人の「思考背景」を説明をしていきます。 - 猫箱ただひとつ

 

でここからが本題なのですが、自分もこういう思考背景とかそういうことを語りたくなったので、この記事を書くことにしました。猫箱さんよりはかなり稚拙な思考と文章力でしょうが、自己の振り返りも兼ねてやってみようと思います。

ただ自分は散発的な思考をする人間なので、体系立っていてまとまった思考があるわけではないので、ぼちぼち更新していこうと思います。

(9.17 今日はここまで)