ステータスを見る女性から学ぶ事

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昔はステータスで男を見る女の事が理解できないし気持ち悪いと思っていた。端的に言えば"金持ちが好きな女"みたいなのがすごく嫌いだったのだ。

生理的に無理というやつだったからなぜそう思っていたのかを説明するのは難しいが、一つには人間の代替可能性を感じてしまったからというものがある。「金持ちである」Aさんが好きなのだとしたら、同じく「金持ちである」Bさんも好きで然るべきであり、それだったらAさん固有のものは何も評価されてないのではないかという事だ。加えて言えば、その理屈の先に一番金持ちである人間が一番モテるというような結果が待っているようにしか思えなかったのだ。

だが最近はまあそういうものかと思えるようになって来た。そもそも他人を好きになる(好意を持つ)というのは、その人の何らかを評価しているからであるわけで、それが金を持っていることであっても良いのではないかと考えるようになったからだ。*1

思考実験としてイケメンだけど声は残念なQさんとブサイクだけど声はイケメンなWさんがいたとしよう。顔が見えていない段階だったらQさんよりWさんの方が好感度が高いはずである。しかし顔が見えたらWさんよりQさんの方が好感度が高くなるかもしれない。

つまり人間は与えられた情報に基づいて常に判断を変更しているのである。例えば生きる上で"顔"というものはたまたま表に出て来ているものにすぎないがイケメンというだけで(いくら中身がクズでも)評価されうる。逆にブサイクで初めは評価されなくても、あとで金持ちだとわかれば評価される。そういう表に出ない情報を知ることによっても人は他人に対する判断を変えうるのだ。

むしろ気をつけないといけないのは、(自分自身も含め)人間は見える情報のみによって判断しがちだということかも知れない。あの人は仏頂面だからつまらないとか、そういう決めつけをしばしばしがちだし、そう言った判断はそれより先を知ることを妨げてしまいがちである(つまり話す機会を失わせる)。だからこそ他人とコミュニケーションを取ることは重要だし、逆に自分がそう思われないように日頃から気をつける事が大切なのだと思っている。

 

*1:人間が他人を評価するときにイニシャルの情報というのは結構重要なのではないかと思う。例えば就活のエントリーシートで学歴フィルターをかけられるのと同じくだ。よく内面を知ってもらう前に外面がダメなら意味ないというが、まさにそういう議論である。僕の場合は外面を単に容姿とかそういう意味じゃなくて、何でもいいから興味を引くような事だと思っているから、例えばそれが保有資産額であっても学歴であってもいいと思う。自分に興味を持ってもらうきっかけがあれば良いのだと。そういう意味では「金持ちである」というきっかけで自分を知ってもらうのはありかなと思うのだ。相手が「金を持っている」自分を評価しているのか、「金を稼ぐ能力がある」自分を評価しているのかはその後に考えればいい話である。

他人の話を聞いて気付いたこと

確か大学一年のちょうど入学した頃だったかに、ネットでナンパのやり方みたいな記事読んで、そこに「自分が話すんじゃなくて相手の話を聞いてあげることが重要」みたいなことが書いてあった。別にナンパするわけじゃないけど、なんとなくその記事のことが頭に残っていて、それを読んで以降はなるべく人の話を聞く方に重点をおいてコミュニケーションを取ってきた。

そういうやり方は相手にとって良いだけでなく、自分にとっても合っていると思っていた。僕は自分の話をおもしろおかしく語れるたちでもないし、そのようなことが起こるような生き方をしていないから、何も喋らずに気まずい時間が流れていくよりは相手の話を聞くことでコミュニケーションを取る方が性に合っていると思っていたのだ。マァ実際に相手の反応を見る限りは、その判断は間違っていないように感じる。(認知バイアスなんだろうけど)

でも最近はなんかそれだけじゃ物足りなさを感じてしまって、ついつい自分の話をしてしまうことが増えた。さらに自分の話をすることの楽しさみたいなものを感じるようになってしまった。

自分の話をできて楽しいって何なのだろうかと考えると、やっぱそれは肯定感であると思う。「自分はこんなこと考えてるんだ」とか「こんな事を感じてるんだ」という事を話す事で共感を得ようとするとともに、自分の生きてることへの肯定感とか、自分のやった行為の正しさとかを相手に求めてるんだろうと思う。生きていることへの責任が常に自分に向いていたら、かえってその重さで辛くなってしまうから、それを軽減しようとする行動なんじゃないか。

だからこそ、他人がそうやって話してくれたなら親身に聞いてあげることが重要なんだなあ、などと感じたのであった。

他人は自分を規定する

最近気付いたんだけど、ツイッターで童貞芸(ご存知の通り、芸ではないんだけど)してると、こいつは恋愛の話はできないみたいに思われてしまうみたいだ。自分のやり方次第で相手の行動を変えてしまい、結果として自分の得れた可能性のある情報(のようなものとか)が得られなくなるって怖い。

でも多分、人間が他人を規定するのって当たり前なんだと思う。僕だってあいつには〇〇の話はしないとか意識的または無意識的に決めることはあるわけだし。

この話っていわゆる「人間の裏表」的なものにもつながってると思う。人には裏表というものがあるんじゃなくて、相手によって見せる自分を変えているだけであって、何を見せるかは意識的または無意識的に変えるものなのであるから、そのそも表を見たまま裏を見るなど不可能なのだと思う。(僕の場合は無意識的、というか意識的にどうにもならないところで変えるけど)

まあ何が言いたいかって言ったら、他人意識して生きると疲れるねってこと。(ツイッターはもともと他人を意識しないというのが目標だったんだけどなぁ…)

「配慮の原理」について

人間関係を円滑にするには「配慮の原理」が必要だと思う。つまり互いが互いに配慮して出来る限り行動することなんだけど、これじゃあ漠然としているから例を出す。

AがBに何かをしてあげたときに、AはBに感謝し、逆にBはAに"感謝しろ"と言うべきでは無いと言うことだ。

感謝って言われてやるものではないし、"感謝しろ"と言うものでも無い。でもAが感謝しなかったらBはちょっと嫌な気になるかもしれないし、だからといってBがAに"感謝しろ"とか言ったらそれこそ感謝する気持ちも萎えるだろう。

そこで互いを配慮し、先んじて行動すると言うことが重要になると思う。

別に感謝に限らずこう言うことって生きてればよくあることだと思うし、互いが積極的に配慮できたら素敵な社会だと思う。まあ国家レベルじゃそうはいかないけど、個人レベルなら実現できるだろうし。

原理と言っても僕が適当に名付けただけだし、多分こう言う考えで生きてる人はたくさんいるからおこがましいのかもしれない。まあいづれにせよ、こうやって考える人が増えたらいいなあ。

誰でもいいから付き合いたい

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誰でもいいから付き合いたい。まあ最近はこれある。昔は性欲的な問題だったけど、最近は単純に恋人という人間関係のあり方に興味がある。

友人に「告られて拒否るって意味わかんなくね」って言ったら全く同意が得られなかった。でも僕はよくわからない。人間関係とはかなり可変的なものだと思うからだ。好きだった人が嫌いになることもあれば、友だちだった人がそうでなくなることもある。

だから告られて恋人という人間関係になったあとに互いの感情がどうなるかはわからないと思う。嫌いだったのに好かれてて意外と好きになることもあるかも知れんし、関心なかったのに意外と面白い面が見つかるかもしれない。結婚という法的契約とは違うから、嫌になったら切ればいいと思うし。

だから誰でもいいから付き合いたいなあ、なんて最近は思う。

 

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