愚痴日記

すこしだけ真面目

自分以外の人間は演者なのではないかという疑念

よく、自分以外の人間は演者なのではないかという疑念にかられることがあります。

初めてそれを感じたのは小学校の頃、ある時々での母親のあまりの態度の変貌ぶりに、実は"母親は何人かいて、自分の知らないところで入れ替わっているのではないか"と思った時です。そう考え始めると"自分は実はロボットかなんかで、世界中は実は自分を観察するために作られた舞台なのではないか"なんていう気がして来てしまうのです。*1

最近はここまで極端なことは考えませんが、代わりに"自分以外の人間がこの世に存在することが証明できない"という思考に取り憑かれつつあります。人間が何かを観察するときに、自分というフィルターを通さずに見ることは例外なく絶対にできません。ある事実を確認する時でさえ、それを事実として観察する自分がいるわけですから、それが本当に"事実"なのかがわかるわけがないと思います。

例を二つあげて見ましょう。まずは自分のフィルターを通すことの身近な例です。BさんがAさんのことを嫌っているとしましょう。でもAさんはそのことに気付いていない、いやむしろBさんに好かれていると思っているかもしれません。そしてたとえBさんがAさんのことを嫌いであっても、そのことを一切表面に出さなければBさんがAさんを嫌いという"事実"はBさんにとってのものでしかないのです。人間の好き嫌いは一番顕著な例と言えます。

次に事実が本当に"事実"か、という例です。例えば小さな鉄球を床に落とすとしましょう。床に着いた瞬間に球は音を立ててはねるでしょう。すると人はそれを"落ちた"と認識します。視覚的に床にはねるのを見て、聴覚でその音を聞くからそう思うのです。でもその事実も視覚や聴覚に頼っているわけで、その現象の本質を捉えているというわけではないのです。視覚や聴覚そのものが現実を捉えるのではなく、見たもの聞いたものを自分の脳が処理しているに過ぎないからです。

世界を観察するのには自分というフィルターを通すしかないのなら、むしろ世界の全ては自分が決定できるとも言えます。Aさんに嫌われているという"事実"ですら、自分の都合のいいように解釈をしたりすることで、"事実"を捻じ曲げることはできるのです。逆に言えば、Aさんに好かれているという"事実"を、嫌われていると認識することもできるわけです。*2だから本質的な意味で世界は自分次第だと言えると考えています。

"自分以外の人間がこの世に存在することが証明できない"とはこのような思考によるものです。デカルトが述べた通り、「我思う」ことで「我あり」と証明できる*3わけですが、他人の存在というのは自分のフィルターを通してしか認識できません。他人がいることをその人を見て、その人の声を聞いて、その人の身体に触れて、その人の匂いを嗅いで、ようやくその人がそこにいることがわかるわけです。それでもその人がそこにいるかは自分の認識の問題で、実は本当にいるかなんてわかりません。仮にそこにいることを"事実"として捉えられたとしても、その人が自分と同じように思考をしている動体なのかということを証明することは無理に近いと思います。その人の思考に入り込むことはできないからです。その人の口から出てくる言葉一つ一つがその人の思考によるものなのか、コンピュータのプログラミングのような反応として出てきているのか区別することは事実レベルではもちろんできません。自分の認識を超えて認識することができないからです。

ここまで非現実的(と一般には考えられるであろう)なことを並べてきましたが、もっと身近なレベルでも認識の問題は発生しています。「馬鹿は風邪を引かない」のではなく馬鹿は風邪を引いても気づかないのだとか、靴下が片方だけなくなるのは両方なくなったときはなくなったことに気づかないからなのだとか、自分は周りが見えていると感じるのは周りが見えている時しか周りが見えている自分に気づかないからだとか。そう考えると認識の問題って大きいなあと思うのですが、いかがでしょうか。

*1:こう書くと非常に自己中心的な発想ですね

*2:自分はこう考えてしまうことが多いですね

*3:いや正確にはこの思考すら他人の造形物からもしれませんが今回は置いておきましょう

京大経済学部の履修とか単位とかについて

当方、今年度(H29)から二回生になります*1

今年の履修登録を進めるうちに様々な後悔をしてしまったので、運よく(?)このサイトにたどり着いた新一回生向けにメモとして残しておきます。なお間違いなどがあるかもしれませんので、参考程度にとどめておいてください。

 

1.卒業に必要な単位

以下、英語を履修する前提とします。なお引用元はこちらです。

全学共通科目(語学以外)

人社群を14単位以上・自然群を8単位以上・他5群*2を6単位以上。これらに加えていづれかの群から4単位(①)。

※注意点

二回生では人社群である「外国文献研究(E科目)」を4単位分取らなくてはいけません。またE科目としてこれに加えて4単位を取ることになります。文系だとE科目は人社群から取ることになるでしょうから、一回生のうちに取るべき人社群の単位数は6単位になります。

自然群に関しては、一年前期の数学基礎Aは理系高校生が学習する内容なので楽単だと思います。上回生になると数3の知識は必要となるようなので、履修を強く推奨します。なお後期に関しては、教授によっては大変ハードなので、各々で履修を決めるのが良いと思います。

①に関しては講義の幅が広い他5群か人社から取ることがオススメです。なお自然群は理系向けが多く、文系の方が自然群から①を取ることはオススメしません。

全学共通科目(語学)

外国語群は24単位以上が必要です。

一回生では以下のものを履修します。

  • 英語リーディングが前期・後期で4単位
  • 英語ライティング&リスニングが前期・後期で4単位
  • 第二外国語演習が前期・後期で4単位
  • 第二外国語文法が前期・後期で4単位

二回生では以下のものを履修します。

これらを合わせて24単位になります。*3

学部科目

必要単位数は84単位以上です。なお卒業論文は4年後期に6単位分として加算されます。また他学部が開講する他学部科目と経済学部が開講する法学部科目を合わせて20単位まで認められます。

 

2.モデル

3年前期までで単位を取り終える想定で、モデルとなる履修の仕方を提示します。

一回生の履修
  • 人社群6単位(E科目なし)
  • 自然群8単位(数学)
  • 他5群6単位
  • 外国語群16単位
  • 経済学部科目20単位(入門科目・入門ゼミ)
二回生の履修
  • 人社群8単位(外国文献研究・E科目)
  • 他5群4単位
  • 外国語群8単位
  • 経済学部科目36単位
三回生の履修
  • 経済学部科目28単位

 

3.終わりに

僕はまだ2回生なのでわかりませんが、ゼミが4回生まであると思うので、経済学部科目はもう少し緩めでとっても大丈夫かもしれません。

何か間違えやアドバイスなどありましたら、コメント欄にてお願いします。

*1:法学部なら一回生のままだった模様

*2:情報・健康・キャリア・統合・ilasセミナー

*3:二回生での第二外国語は演習・文法という講義名ではありませんが、便宜上そのようにしています

外食についての考察

前回の投稿からだいぶ空いてしまいましたが、今回は外食について書いていこうと思います。先に断っておくと、この内容は"チラシの裏にでも書いてろよ"的な内容なので、時間がない人は読まない方がいいです。もっとも当ブログを読んでくださっている方々は何か有益な情報を求めているわけではないと思うので、そのような方にも遠慮せずこの記事を書きます。

時間の無駄を助長するような前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。

 

人間が生きるには食事を取らないといけないわけですが、一人暮らしの場合は食事を作ってくれる人がいないので、当然のこと自分で作る必要があります*1。でもこれが結構面倒臭い。一時期はレシピ調べて作っていましたが、最近は"うどん・豚ばら肉・豆腐・納豆・もやし"をうまく組み合わせて適当な料理を完成させて食べています。これではもちろん飽きがきます。そこで外食をするわけです。つまり外食の意義とは"自炊が飽きを解消するため"ということになります。

一方で外食をすると金を使います。"豚ばらうどん"なら材料費でせいぜい100円程度ですが、ビックマックバーガーセットなら680円もしてしまいます*2。さらに外食といっても丸の内のOLのランチのような、健康志向の食事をするわけではありません。むしろ太ったアメリカ人が毎日食べてそうなジャンクフードを摂取するわけです。例えば、マクドナルドや二郎系ラーメンのような。だから栄養は偏ります。

 

したがって、これらをまとめると外食とは "お金と引き換えに、脂肪と瞬間的な欲求を解消するもの"だ、ということができます。

これだけ見ると外食とはなんて無駄なものなんだという感じがしてしまいますね。でもひたすら豆腐とうどんだけを食べていたら気が狂ってしまうでしょう。これまさに理屈と現実のずれという感じがします。理屈的に考えたら「脂肪(先進国においては有り余っていてなるべく摂取を控えた方がいいもの)をお金で買う、そして満たされるのは一時の欲望だけ」となれば外食は当然悪いものになります。でも外食をしないとQOLが下がる。その"QOLの低下"という曖昧なものを理屈にできないことがこのことの問題点なのでしょう。

こういう曖昧なものに対する評価基準をいかにしてつけるのか、ということに関しては非常に悩ましいです。"短期的に見れば友人が多いのは面倒臭いことだが、長期的には充足感を持てる"*3とか他にも様々な場面でこういった問題にぶち当たります。結局これに対する答えは出ていないので、誰か名案があったら教えてください。

*1:彼女なる存在に食事を作ってもらう人はレアケースとする

*2:

バリューセット(レギュラー) | メニュー情報 | McDonald's マクドナルド

*3:もちろんこれは人それぞれですが

コミュニケーションに関しての補足

前記事の補足です。

 

1.一般的な会話について

"一般的な会話においては適当に返答すればよい"と言及しましたが、コミュニケーション上級者(≠一般人)になると、どのように返答するのが良いのかを考えるのだと思います。例えば先ほどのツイートを例とするなら、

  • 「洗濯物がよく乾きそうですね」→昨日は雨だったから助かる・(洗濯物を自分で干していると言うことは)一人暮らしなのか etc
  • 「午後から雨が降るそうなんですよ」→午後は何か予定あるのか etc
  • 「家の近くでは雨」→どこに住んでいるのか etc

とまあこんな感じで話が膨らみそうであることを予想します。この中から自分の持ちネタ ー例えば僕なら一人暮らしのことー に繋がりそうな言葉を返せば良いのです。自分が話しやすいネタにつなげていけば、意識せずとも相手を自分のペースに巻き込んで行けるし、相手に合わせなくていいから話すことも楽になるでしょう。

 

2.理屈と行動

理屈的にはこのように話していけばスムーズに進むのでしょうが、実際はそう上手くはいきません。"コミュ障である"と言う自覚そのものがコミュニケーションを妨げるからです。では理屈を実践するにはどのようにすべきかと言えば、それは行動するしかないのでしょう。始めは不安だったり緊張したりしても、やっていくうちに慣れることが重要なんだと思います。

ここに関しては自分も苦手なので、コミュ障の方々、一緒に頑張っていきましょう。

大局的な目を持つことでコミュ障を改善する

Twitterでこんな画像が出回っていました。

 これを見た大半のコミュ障の方は、"おお、まさにこれだよ"と言いたくなったのではないでしょうか。ご多聞に洩れず、コミュ障の私も思わずそう思ってしまいました。

 

なぜコミュ障だとこのような思考になってしまうのでしょう。どうしたら一般人のような思考ができるのでしょうか。

その解決策の一つが、大局的に見る"目"を持つことだと思います。

先日こんなことがありました。近くのラーメン屋で並んでいると観光客と思われるおばちゃん達が並んでいる別の客(Aさんとします)に「このラーメン屋は美味しいのか」と聞きました。するとAさんは「ここのラーメンは家系で・・・」とボソボソと話し始めました。当然おばちゃん達は"家系"などと言われても理解できずにポカンとしていました。

おそらくAさんの頭の中では "美味しいのは当然だから、なんで美味しいのかを説明しなければならない" という考えが働いたのでしょう。しかしおばちゃん達が求めていたことは "京都に来たし何か食べよう" 程度でしかなく、ここのラーメンがなぜ美味しいのか、もっと言えばラーメンが実際に美味しいかどうかなど、実はどうでも良いのです。Aさんはそのことに気付かなかったから、いちいち説明を始めてしまったのです。

 

もうお分かりでしょうか。コミュ障というのは、おかしなほど分析的であるのに、一番重要な "相手が何を求めているか" という思考が欠如しているのです。

先ほどのツイートの例に戻りましょう。「今日はいい天気ですね」と言われたときどう返すのが適切でしょうか。もしそこが地学学会かなんかの議論中だったらその理由を説明する ー西高東低の気圧配置だから云々ー のが適切なのでしょう。ですが一般的な会話であったらそれはただ間を持たせるためのものでしかないわけですから、"適当に"返答しておけば良いのです。つまり洗濯物の話でも、午後の雨の話でも、家の近くの雨の話でもいいわけです。そこに何を言って相手がどう思うとか考える必要はないのです。

無論、一般人はそこまで考えるわけではないでしょうし、大局的にみて返答しているわけでもないでしょう。でももし自分がコミュ障だと思うなら、そのような思考を持つことで多少はまともな生活が送れるようになるのだと思います。