愚痴日記

すこしだけ真面目

思想背景とか

最近、とある恋愛シミュレーションゲームをプレイし感動したので、そのレビュー記事を漁っていたですが、その結果素晴らしいブログにたどり着きました。それがこちらです。

eroge-pc.hatenablog.jp

アニメやマンガやゲームなどの物語を深く鋭く考察していてとても気に入りました。

どのような方なのかすごく気になるところですが、ブログで使われている造語や「思想背景」を綴っているこちらの記事を読むと、結構自分と似たような思考をしているのではないかと思いました。あーわかるわかるという連続という感じです。

管理人の「思考背景」を説明をしていきます。 - 猫箱ただひとつ

 

でここからが本題なのですが、自分もこういう思考背景とかそういうことを語りたくなったので、この記事を書くことにしました。猫箱さんよりはかなり稚拙な思考と文章力でしょうが、自己の振り返りも兼ねてやってみようと思います。

ただ自分は散発的な思考をする人間なので、体系立っていてまとまった思考があるわけではないので、ぼちぼち更新していこうと思います。

(9.17 今日はここまで)

境界

今日考えてたこと。

面と向かってのコミュニュケーションは、身体という物理的な境界を意識せざるを得ないから、それが会話(や体の些細な動きから感じる他人の思考)の中に現れてしまって、自分が他人を警戒しているということを他人に感じさせてしまう。(もちろん本当は警戒などしたくないが、それは無意識のうちのものなので仕方がない)

それに対して、インターネット上のコミュニュケーションは、文字化された他人の思考だけが現れるから何の警戒心もなくなる。自分と他人の境界が非常に曖昧なのだ。特に匿名であれば名前という境界がなくなるし、アカウントというものが存在しない場合(掲示板)はさらに境界が曖昧になる。

面と向かってのコミュニュケーションであっても、暗闇だったら話の内容がディープになるのもその表れではなかろうか。境界がなくなるから警戒が解けるのだと思う。

Twitterやめるかも・・・って話

Twitterやめようかと考え始めました。

自分は、中三の頃に同じクラスの某つい廃が中学の先生とツイッター上で会話しているのを知り、その便利さにカルチャーショックを受けて始めました。その後は一日1000ツイートを目指して頑張ったり、某団体への批判を書き込んで怒られたりもしました。その間で何回もやめようと考えたことはありました。Twitter依存になっているからそれから脱却しようとつい禁したことや単純に飽きてやっていない時期もありました。でも結局やめることはできず(せず)アカウントを作っては消し、作っては消しを繰り返し今の20個目くらいのアカウントを使っているわけです。

で、今回なんでやめようかと思うと、ツイッターに大した意義を見出せなくなってきたからです。昔はフォロワーなんて気にせずにツイートしてましたが*1、最近は意識せざるを得ない、というか言葉にしづらいのですが、そんな感じがしてしまうのです。大学に入ったという変化によるものだ、と理由をこじつけることはできますが、正直自分でもよくわからないです。

Twitterと人間関係というトピックについては別記事でも書こうと思っているのですが、僕の基本的なスタンスは「インターネット上の言論空間は(現実よりも)自由であるべきだ」というものです。過激な誹謗中傷を認めるとまでは言いませんが、発言に関しては各個人を信頼し、その自由が最大限認められるべきであろうと思っています。そのスタンスでいくと今の僕にとってフォロワーは(語弊を恐れずにいうなら)"邪魔"でしか無くなってしまったのです。

だから多分やめます。今までも何度も辞めては作ってを繰り返しているので今回もどうなるかわかりませんが、いつのまにかアカウントを消していても心配なさらないでください。

 

追記17/5/24

結局、垢消ししました。

*1:今になれば一日800ツイートがどれだけ害悪かよくわかりますね

自分以外の人間は演者なのではないかという疑念

よく、自分以外の人間は演者なのではないかという疑念にかられることがあります。

初めてそれを感じたのは小学校の頃、ある時々での母親のあまりの態度の変貌ぶりに、実は"母親は何人かいて、自分の知らないところで入れ替わっているのではないか"と思った時です。そう考え始めると"自分は実はロボットかなんかで、世界中は実は自分を観察するために作られた舞台なのではないか"なんていう気がして来てしまうのです。*1

最近はここまで極端なことは考えませんが、代わりに"自分以外の人間がこの世に存在することが証明できない"という思考に取り憑かれつつあります。人間が何かを観察するときに、自分というフィルターを通さずに見ることは例外なく絶対にできません。ある事実を確認する時でさえ、それを事実として観察する自分がいるわけですから、それが本当に"事実"なのかがわかるわけがないと思います。

例を二つあげて見ましょう。まずは自分のフィルターを通すことの身近な例です。BさんがAさんのことを嫌っているとしましょう。でもAさんはそのことに気付いていない、いやむしろBさんに好かれていると思っているかもしれません。そしてたとえBさんがAさんのことを嫌いであっても、そのことを一切表面に出さなければBさんがAさんを嫌いという"事実"はBさんにとってのものでしかないのです。人間の好き嫌いは一番顕著な例と言えます。

次に事実が本当に"事実"か、という例です。例えば小さな鉄球を床に落とすとしましょう。床に着いた瞬間に球は音を立ててはねるでしょう。すると人はそれを"落ちた"と認識します。視覚的に床にはねるのを見て、聴覚でその音を聞くからそう思うのです。でもその事実も視覚や聴覚に頼っているわけで、その現象の本質を捉えているというわけではないのです。視覚や聴覚そのものが現実を捉えるのではなく、見たもの聞いたものを自分の脳が処理しているに過ぎないからです。

世界を観察するのには自分というフィルターを通すしかないのなら、むしろ世界の全ては自分が決定できるとも言えます。Aさんに嫌われているという"事実"ですら、自分の都合のいいように解釈をしたりすることで、"事実"を捻じ曲げることはできるのです。逆に言えば、Aさんに好かれているという"事実"を、嫌われていると認識することもできるわけです。*2だから本質的な意味で世界は自分次第だと言えると考えています。

"自分以外の人間がこの世に存在することが証明できない"とはこのような思考によるものです。デカルトが述べた通り、「我思う」ことで「我あり」と証明できる*3わけですが、他人の存在というのは自分のフィルターを通してしか認識できません。他人がいることをその人を見て、その人の声を聞いて、その人の身体に触れて、その人の匂いを嗅いで、ようやくその人がそこにいることがわかるわけです。それでもその人がそこにいるかは自分の認識の問題で、実は本当にいるかなんてわかりません。仮にそこにいることを"事実"として捉えられたとしても、その人が自分と同じように思考をしている動体なのかということを証明することは無理に近いと思います。その人の思考に入り込むことはできないからです。その人の口から出てくる言葉一つ一つがその人の思考によるものなのか、コンピュータのプログラミングのような反応として出てきているのか区別することは事実レベルではもちろんできません。自分の認識を超えて認識することができないからです。

ここまで非現実的(と一般には考えられるであろう)なことを並べてきましたが、もっと身近なレベルでも認識の問題は発生しています。「馬鹿は風邪を引かない」のではなく馬鹿は風邪を引いても気づかないのだとか、靴下が片方だけなくなるのは両方なくなったときはなくなったことに気づかないからなのだとか、自分は周りが見えていると感じるのは周りが見えている時しか周りが見えている自分に気づかないからだとか。そう考えると認識の問題って大きいなあと思うのですが、いかがでしょうか。

*1:こう書くと非常に自己中心的な発想ですね

*2:自分はこう考えてしまうことが多いですね

*3:いや正確にはこの思考すら他人の造形物からもしれませんが今回は置いておきましょう