ブログを書くということについて
ブログ書いてると自分と向き合ってる感があって非常に照れ臭くなるんだよね
— きしみ手 (@guchi36_) 2017年11月2日
ブログを書くって自分を見つめ直す作業だと思う。もちろんブログに何を書くかにもよるんだけど、僕みたいに思考を文字化する(&記録して公開する)ために書く場合は特にそうなんじゃないかと思う。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言ったそうだけど、我を思うというのは意外に我がいらない作業というか、我を思っている時って我を忘れているように感じる。でもこうして文字化すると、パソコンの画面にその文字列があらわれ目に入ってくるから、否応無しに我を忘れることができなくなる。
じゃあツイッターとはどう違うんだろうとも思う。ツイッターの場合はそもそも文字数が少ないし、どちらかというと掃き溜め的要素が大きいから、たいして理屈的に書かなくても済むし、つまり自分から逃れる要素が強い。自分にはそのほうが性に合ってる気もするけど。
何が言いたいかっていうと、いよいよ社会人間近でとうとう自分から逃げられなくなってきたので、今までの贖罪的な意味も含めてもう少しブログの更新頻度をあげようと思うので、よろしくお願いします。
猫箱さんの「思想背景」に対しての感想1〜心象強度〜
この記事は、以下のブログ記事へのコメントというか、自分が思ったことを述べるものです。また以下の記事内の引用は断りのない限り、全て以下の記事から引用させてもらいます。長くなるのが嫌なので、一つずつ記事にしていきます。
1心象強度
心象強度とは、外側の影響(=他者・承認・否定)に振り回されない心の度合いを言い表したものです。心象強度が高ければ、友達がいるかいない、集団排斥、他者に非難されようともあまり傷つきません。
自分と他人という境界は実に曖昧なものであると大学の授業で知りました。自分が常にただ"自分"であることはあり得ない、自分というのは他人から影響を受け続けているからだ、という考え方です。ではそれでもなお心象強度が強い人間とはなんなのだろうか、どうしたら強くなれるのだろうか、と思います。
僕自身は心象強度が弱い人間だと常々感じています。他人に流されやすいというか他人の目をどうしても気にしてしまいます。幼少期にはぶられ続けた(少なくとも僕はそう認識している)経験から本能的に仲間はずれにならないような選択をしてしまうのだと思います。Twitterでフォロワーを気にせず自分の好き勝手にツイートをするという経験はそれを克服するきっかけになるかと思いましたがあまり効果はありませんでした。結局のところどうしてもフォロワーを気にしてしまう僕がどこかにいるのです。
なぜなら自分の内側に価値を置くことが出来る人間は、外側にまったく期待していませんから。自分自身がどう思うかどう感じるかが重要で、肝要なわけです。
外界に期待をするから、自分の内側に価値を置くことのできないと言われればそうかもしれません。確かに自分は今まで様々な人に頼って生きてきたと思います。逆境を一人で乗り越えた経験とかないですしね。外界に期待しな(≒絶望している?)くとも一人で生きれる自身こそが心象強度を強くするのかもしれません。
しかし生きるということの最終的な目標を自分一人で達成することはできないのではないかとも同時に思います。例えば本を読んで感動したとき、ああ素晴らしかったと自分の中で思うと同時に、この感動を誰かに伝えたいと考えるでしょう。人間は誰かと共感することで、感情を増幅させますから至極当然の行動です。もちろん心象強度の強い人間は自分の中で反芻することに意味を感じるのかもしれないですが、伝えたいという思いがない人は相当珍しいと思います。伝えたいという思いがなかったとしても、その本に感動するということは、その本から影響を受けているわけですから結局は同じことで、他者がいるから成り立っている思考だと思います。生きることはこの連続で、何かによって他者から影響を受けたり、誰かに伝えることで他者に影響を与えるとともに、自分の存在を確かめることだと思います。そういう観点からすると心象強度が強い人と雖も、実は限定的というか、むしろ限定的でなければおかしいように思うのです。
思想背景とか
最近、とある恋愛シミュレーションゲームをプレイし感動したので、そのレビュー記事を漁っていたですが、その結果素晴らしいブログにたどり着きました。それがこちらです。
アニメやマンガやゲームなどの物語を深く鋭く考察していてとても気に入りました。
どのような方なのかすごく気になるところですが、ブログで使われている造語や「思想背景」を綴っているこちらの記事を読むと、結構自分と似たような思考をしているのではないかと思いました。あーわかるわかるという連続という感じです。
管理人の「思考背景」を説明をしていきます。 - 猫箱ただひとつ
でここからが本題なのですが、自分もこういう思考背景とかそういうことを語りたくなったので、この記事を書くことにしました。猫箱さんよりはかなり稚拙な思考と文章力でしょうが、自己の振り返りも兼ねてやってみようと思います。
ただ自分は散発的な思考をする人間なので、体系立っていてまとまった思考があるわけではないので、ぼちぼち更新していこうと思います。
(9.17 今日はここまで)
境界
今日考えてたこと。
面と向かってのコミュニュケーションは、身体という物理的な境界を意識せざるを得ないから、それが会話(や体の些細な動きから感じる他人の思考)の中に現れてしまって、自分が他人を警戒しているということを他人に感じさせてしまう。(もちろん本当は警戒などしたくないが、それは無意識のうちのものなので仕方がない)
それに対して、インターネット上のコミュニュケーションは、文字化された他人の思考だけが現れるから何の警戒心もなくなる。自分と他人の境界が非常に曖昧なのだ。特に匿名であれば名前という境界がなくなるし、アカウントというものが存在しない場合(掲示板)はさらに境界が曖昧になる。
面と向かってのコミュニュケーションであっても、暗闇だったら話の内容がディープになるのもその表れではなかろうか。境界がなくなるから警戒が解けるのだと思う。