愚痴日記

すこしだけ真面目

他人の話を聞いて気付いたこと

確か大学一年のちょうど入学した頃だったかに、ネットでナンパのやり方みたいな記事読んで、そこに「自分が話すんじゃなくて相手の話を聞いてあげることが重要」みたいなことが書いてあった。別にナンパするわけじゃないけど、なんとなくその記事のことが頭に残っていて、それを読んで以降はなるべく人の話を聞く方に重点をおいてコミュニケーションを取ってきた。

そういうやり方は相手にとって良いだけでなく、自分にとっても合っていると思っていた。僕は自分の話をおもしろおかしく語れるたちでもないし、そのようなことが起こるような生き方をしていないから、何も喋らずに気まずい時間が流れていくよりは相手の話を聞くことでコミュニケーションを取る方が性に合っていると思っていたのだ。マァ実際に相手の反応を見る限りは、その判断は間違っていないように感じる。(認知バイアスなんだろうけど)

でも最近はなんかそれだけじゃ物足りなさを感じてしまって、ついつい自分の話をしてしまうことが増えた。さらに自分の話をすることの楽しさみたいなものを感じるようになってしまった。

自分の話をできて楽しいって何なのだろうかと考えると、やっぱそれは肯定感であると思う。「自分はこんなこと考えてるんだ」とか「こんな事を感じてるんだ」という事を話す事で共感を得ようとするとともに、自分の生きてることへの肯定感とか、自分のやった行為の正しさとかを相手に求めてるんだろうと思う。生きていることへの責任が常に自分に向いていたら、かえってその重さで辛くなってしまうから、それを軽減しようとする行動なんじゃないか。

だからこそ、他人がそうやって話してくれたなら親身に聞いてあげることが重要なんだなあ、などと感じたのであった。

他人は自分を規定する

最近気付いたんだけど、ツイッターで童貞芸(ご存知の通り、芸ではないんだけど)してると、こいつは恋愛の話はできないみたいに思われてしまうみたいだ。自分のやり方次第で相手の行動を変えてしまい、結果として自分の得れた可能性のある情報(のようなものとか)が得られなくなるって怖い。

でも多分、人間が他人を規定するのって当たり前なんだと思う。僕だってあいつには〇〇の話はしないとか意識的または無意識的に決めることはあるわけだし。

この話っていわゆる「人間の裏表」的なものにもつながってると思う。人には裏表というものがあるんじゃなくて、相手によって見せる自分を変えているだけであって、何を見せるかは意識的または無意識的に変えるものなのであるから、そのそも表を見たまま裏を見るなど不可能なのだと思う。(僕の場合は無意識的、というか意識的にどうにもならないところで変えるけど)

まあ何が言いたいかって言ったら、他人意識して生きると疲れるねってこと。(ツイッターはもともと他人を意識しないというのが目標だったんだけどなぁ…)

「配慮の原理」について

人間関係を円滑にするには「配慮の原理」が必要だと思う。つまり互いが互いに配慮して出来る限り行動することなんだけど、これじゃあ漠然としているから例を出す。

AがBに何かをしてあげたときに、AはBに感謝し、逆にBはAに"感謝しろ"と言うべきでは無いと言うことだ。

感謝って言われてやるものではないし、"感謝しろ"と言うものでも無い。でもAが感謝しなかったらBはちょっと嫌な気になるかもしれないし、だからといってBがAに"感謝しろ"とか言ったらそれこそ感謝する気持ちも萎えるだろう。

そこで互いを配慮し、先んじて行動すると言うことが重要になると思う。

別に感謝に限らずこう言うことって生きてればよくあることだと思うし、互いが積極的に配慮できたら素敵な社会だと思う。まあ国家レベルじゃそうはいかないけど、個人レベルなら実現できるだろうし。

原理と言っても僕が適当に名付けただけだし、多分こう言う考えで生きてる人はたくさんいるからおこがましいのかもしれない。まあいづれにせよ、こうやって考える人が増えたらいいなあ。

誰でもいいから付き合いたい

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誰でもいいから付き合いたい。まあ最近はこれある。昔は性欲的な問題だったけど、最近は単純に恋人という人間関係のあり方に興味がある。

友人に「告られて拒否るって意味わかんなくね」って言ったら全く同意が得られなかった。でも僕はよくわからない。人間関係とはかなり可変的なものだと思うからだ。好きだった人が嫌いになることもあれば、友だちだった人がそうでなくなることもある。

だから告られて恋人という人間関係になったあとに互いの感情がどうなるかはわからないと思う。嫌いだったのに好かれてて意外と好きになることもあるかも知れんし、関心なかったのに意外と面白い面が見つかるかもしれない。結婚という法的契約とは違うから、嫌になったら切ればいいと思うし。

だから誰でもいいから付き合いたいなあ、なんて最近は思う。

 

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生き急ぐ人

信号待ちの交差点、高齢の方が車が途切れるのは今か今かと車道に半分乗り出して待っていた。青信号になったらすぐに渡りたかったのだろうか、何か用事があったのだろうか。そんなに急いでいても、危ない場所で待っていて事故でも起きたら元も子もないだろうにと思う。

でも僕らだって意味もなく急ぐことはある。たとえば特に急いだ用事がなかったとしても電車一本逃したら損した気分になるだろう、十分後に次の電車は来るとしても。

大した損じゃないのに大きな損に感じてしまうのは資本主義のせいなのだろうか。なんか悲しい。