理屈とは他人を説得するためだけにある
理屈とは究極的には他人を説得するためだけにあると思う。
自分の(人生スケールでの)短期的な目的を達成するためには、概して他人の助けを借りる必要がある。そのときに他人を納得させ、自分の目的を達成するためには明らかに理屈が必要である。ただなんとなく自分がやるのが面倒だからやって欲しいと言っても、相手に聞き入れられる可能性は、相手が自分との関係が浅ければ浅いほど低いだろう。だから理屈が必要になってくる。「あなたが私を手伝うと、あなたにとってこんなにも良いことがある」と伝えなければならないのである。
国家という大きなスケールで見ても同じことだ。国民から集めた税金をどのように使うのかを、なんとなく良さそうという形で決められてしまうのであればたまったもんじゃない。あらゆる政策は「このような理念を達成するために必要である」という理屈の上に立ったものでなければ納得がいかない。それは政策を決める人間と納税する自分が他者であるからに他ならない。
だが、自分の行動を決定することに理屈はいらないと思う。今日一日、寝ていようが起きていようがそれは自分の自由であり、「なぜ今日起きているのか」「なぜ今日起きねばならないのか」と言ったことに究極的には理屈はいらない。もちろん他人に危害を与える場合は別である*1。特に明確な信念がない我々若者にとってはそうである*2。「将来のため」に〇〇をしようという判断をしたとして、じゃあその将来はなぜ"良い"ものなのかというように理屈付けしていくと、結局は生きる意味とは何かという形而上学的な問いに終着する。大人はよく「将来のため」という言葉を使うが、それは後からわかるものだ。今は今生きるしかない。そこに理屈なんて必要ないのだ。
だから理屈は他者を説得するためにあり、自分の判断にそれを用いるべきではないと思うのである。